ブルマの置き場所ってクローゼットだっけ?

~文字書きが神絵師になるまでの道のり~寄り道もあるよ

「生きてた・・・・・・」

タイトルは震災後に遠方の友達に電話した際の最初の言葉です。

実はというか私は宮城出身です。震度7を経験しました。以前、中学の理科の先生が震度7は諦めましょうと言っていてマジかよーって思いました。経験した身からすれば

 

「あ、これマジで無理だ」

 

という感想が思い浮かびました。

本来だったら10年とかの節目に書くべきだと思うんですが、ツイッターで震災のことを書こうかなと呟いたら、上記のやりとりをした友人から「読みたい」というリプが来たので書きたいと思います。

というか、私、震災について話をするだけで残る形でいったことはないんですよね。(語り部とかで活動してたわけではありません)

今回は震災が起こる少し前から今どんな状態かを書いていきたいと思います。

 ※個人の主観です。文句などは、直接私のツイッターに言ってきてください。私は、ただあの時のことを語るだけです。

 

 

・私とピザまんと自転車と

突然ですが、ピザまんは好きですか?

私は大好きです。

3/11の日、午前は先輩の卒業式でした。

午後は休みで部屋でだらだらしていた時ふと思ったんです。

 

「あ、ピザまん食いてぇ」

 

自転車で数分くらいでコンビニにいける距離にあったので、早速自転車に乗りピザまんを買いに。

その判断がのちに正しかったと私は知りました。

自転車に乗りコンビニへ。その途中ふと見上げた時違和感を覚えました。

 

「あれ?ケーブル揺れてね?」

 

その時は全く風なんか吹いていませんでした。

自転車を道路の真ん中で止めると揺れている。(田舎なので車がほとんど通らない)

自転車の横に座り込み地震がとまるまで待とうと思った。

この時までは、「結構強いなぁ」だけだった、この時までは。

 

徐々に強くなる地震

横を向くとアパートがまるで皿に移したゼリーのように揺れていた。

近くの会社の人から「お嬢ちゃん!そこにいな!!自転車も倒しぃ!!」と言われ自転車も倒して道路にへばりついた。

だが、それでも降り飛ばされそうなほどの強い揺れ。

洗濯機の中の洗濯物の気持ちがわかった。

 

三分くらい揺れていたらしい。

揺れが収まり少し呆然としていたが、すぐに家に戻った。

自宅につくと祖父が大丈夫かと聞いてきた。

その時は、私と祖父の二人だけでほかの家族は出払ってました。

テレビをつけようとしたが、電気がつかない。

水道は地震が起こる数日前に地震に強い水道管に変えてたので、なんとか水だけは確保できました。

祖母と叔父が帰宅し、家の前の空き地に避難をしたとき上空にヘリコプターが飛んでました。

普段と違い、低空で飛び何かを叫んでいました。耳を澄ますと。

 

地震により津波が来ます。今すぐ避難をしてください』

 

初めて聞いた警告でした。

ここで、もうすでに日常に戻れないと確信しました。

その後、近くの学校に避難したのですが実は私の自宅付近というか地区には津波は来なかったんです。

理由としては、住所バレしそうなので伏せますが堤防みたいな道路があったんです。そこで津波は防がれました。

 

学校に避難した人たち全員が思いました。

津波って本当に来るの?」

 

この時点で、被災地にはまったく情報が入ってこなかったんです。

ラジオもあったのですが、そもそも電波が入らないのでどうなっているか不明。

ちなみに、避難中私は家族とはぐれ、のちにしこたま怒られました。

 

後から知ったのですが、私地震が起こるまで私室にいたんですよ。

その後見たら、私室の箪笥がすべて倒れてました。

そのまま残っていたら潰されていたか。もしくは出られず途方に暮れていました。

 

・夜と叔父と星空と

その後私は一度家に帰りました。

特に自宅は問題がなかったためです。

そして、叔父と二人で別の学校に何か配っていないか確認しに行きました。

どちらかというと、情報を聞きたいという面が強かったですね。

水数本をもらい、自宅に帰る途中ふと空を見ました。

 

綺麗だったんですよ、星空が。

あんまりにも綺麗だったんです。

天然のプラネタリウム。いや、そんな言葉がチープに思えるほど。

美しかった。

 

地上は電気がなくて真っ暗で。でも空は嫌味なくらいに輝いていてた。

それに思わず、綺麗とこぼした。そしたら隣の叔父は私を責めることなく。

 

「そうだな。綺麗だ。」

 

と言った。あの時、様々なものが不謹慎と言われた。普通だったら、震災が起こった夜にそんなことを言うなんて。と言われてもおかしくはない。

でも、叔父は空を見上げながら私に同意してくれたんです。綺麗だ、と。

 

地震があったのに不謹慎だ」

「たくさん人が死んでいるのになんてこと言うんだ」

 

 

普通だったらこう思うでしょう。そう思うのは、ある意味普通です。未曾有の大震災と言われたのですから。

 

地面が、海が、今まで宮城や岩手、福島の産業を支えてきたものが牙をむいた日だった。

すべてを押し流すような津波が来た。大量の死者が出た。

原発がとまった。メルトダウンを起こした。

宮城・岩手・福島の三県が完全に沈黙した。

 

そんな中でも、星空は憎たらしいほど綺麗だった。

私はその星空を忘れられません。だって、震災と同じくらいインパクトが強かった。

 

・足音と学校とクラスメイトと

その後、家に戻りました。

それぞれの部屋が使えないのと、余震が続いている状態だったので茶の間でみんなで寝ました。

その夜から一週間くらいですかね。ずっと聞こえる音がありました。

 

人の足音です。

誰もいない。

出歩くわけがない。

何より、私の地区に数十人、元気に歩けるような人はいなかった(高齢者ばっかりだったので)

 

蛇足なんですが、私は霊感があります。なんとなく見えます。

なんなら聞こえる時があります。

それで私は察しました。

 

津波で亡くなった人たちだ)

 

よく霊はいないwwwって言っている人がいるんですが、いるんですよ。

いないのなら、あの時の足音は何ですか?

たまに車が通るのでヘッドランプが家を照らすんです。

通常人がいれば影が映ります。映らないんですよ。足音がするのに。

その足音はいったい何ですか?

これは、家族全員が聞いています。霊感がない叔父にすら聞こえてました。

その後母親(現在絶縁)が帰ってきて言われた言葉が。

 

「しばらく夜、カーテンを開けるな。来てる」

 

ちなみに母親は私以上に霊感が強い人で、普通に見えてたらしいです。あと窓をたたく音も聞こえたと。

普段心霊体験をフザケ半分で話してくれた母親が、怖い顔でそういったんです。来てる、開けるなと。

その後音はやみました。一週間くらいかかりました。

 

 

大体一か月かそこらかたち、学校が始まりました。

といっても、そんなに長い時間はやらず午前で終わりというものです。

そんな中、先生に言われました。

 

「〇〇くん(人物名なので伏せます)が津波でなくなりました」

 

彼とはあまり話をしませんでした。クラスも違うし、あまり接点がなかったので。幼稚園は一緒でしたが、話した記憶は少ししかありません。

クラス中が静かになりました。耳が痛くなるほどの沈黙。

津波の詳細は調べれば出てくるのですが、津波が来るまで約50分という時間がありました。

避難は十分出来る時間でした。

でも、時間があった。だからこそ、でした。

巨大な津波は沿岸部の何もかもを飲み込みました。

海からすぐに学校があったので、そこに避難した人もいます。そこに避難した人から話を聞きました。

最初は助けてと声がする。夜に従いその声がどんどん消えていく。

大人ペンギンが子ペンギンを守るよう囲いを作るように、避難した人たちで同じような囲いをつくったそうです。子供に見せられない光景だったと。これを見たら、トラウマになってしまうと。

巨大な地震だった。だからこそ、津波も大きいだろう。そしてすぐ来ると思っていた。

でもすぐじゃなかった。youtubeで検索してください。とんでもない勢いで引いていく水の勢いを。海保があげた動画を。

地震が大きければ大きいほど、津波も大きい。そして、すぐには来ない。それが、私がこの地震で得た教訓の一つです。

それと、地震が1分以上続いたら確実に小さくとも津波は来ます。それも今回知ったことです。

 

葬儀には参加していません。私もそれどころじゃなかったんです。

ただ、一人の子が泣いていました。

人づてに聞いたのですが、彼は地震が起こる数日前にその子に告白をしたそうです。

フラれてしまったとのことですが、その告白された子がぼろ泣きしていました。

泣いていた彼女は、自分を責めているのでしょうか。告白にうなづいていたら、その日遊ぶ約束をしていたら。

もしそうだったら、ほかの子もそう思ったと思います。

 

「一緒に避難をしていたら」

「遊ぶ約束をして、道路の内側に来ていたら」

 

後悔をしているかはわかりません。なんとなくその話をするのはタブーだと思ったからです。

 

 

・電話と友人と感謝と

一か月ほどたち、電気が普及してガスも普及しました。

電話も普及したところで、私はとある友人に電話をしました。

それが、タイトルにあるセリフを言った友人です。

彼女とは、十年くらいの付き合いがあり手紙のやりとりや電話などをしていました。

小6の終わりに引っ越しをし、その後あっていません。遠方なので。

そういえば、震災が起こってから何もしていないと思い、彼女の家に電話をしました。

そしてタイトルのセリフです。

 

私「あ、もしもし〇〇(伏せます)さんの自宅ですか?」

友「そうですが、〇〇?(私の名前です)」

私「うん、そうだよ」

 

友「生きてた・・・・・・・」

 

生きてたの破壊力が強すぎて、ちょっとやりとりはあいまいですがこんな感じだったはずです。

最初は「とんでもなく失礼だな」と思いましたが、彼女の方の話を聞いて納得しました。

私の自宅は海から直線距離でとんでもなく近いところでした。道路がなかったら多分流されていたでしょう。

テレビでは、私が住んでいた地区はすべて流されたという報道があったそうです。

そら、そういう言葉が出てくるわと思いました。

今になって思うんです。逆の立場になって考えた時。

 

十年来の親友が何かに巻き込まれて。

携帯も手紙も何も連絡がないまま。

親友がいたところは何もなくなったと報道され。

一か月くらいたって連絡が来たとしたら。

 

多分私も同じ言葉を言うと思います。

どんな気持ちで言ったかは、本人ではないのでわかりません。ただ、一言「生きてた」それだけでよかった。

それだけで、私はよかった。だって、友達に生きてたって言われた。

よかったといわれた。それだけで私は生きててよかったんです。

まぁ、その後いじめにあって三か月ほど記憶をなくすんですけどね。ハハッ。

 

 

・今と友人とツイッター

今、その友人とはツイッターでつながっています。

楽しそうに日々を過ごしているなぁと思います。彼女も何かと苦労をしていたので。

そして、久しぶりにリプをくれました。

それが今回ブログを書いた経緯につながります。

昼間黙とうをしました。

8年前と同じ天気でした。

 

さっき外に出て空を見上げました。

電灯が付き明るい街。

空には少しの星空。

お金を入れれば自販機からジュースが出てくる。

 

これが8年前は普通じゃなかった。キセキだった。

 

真っ暗な街。

憎たらしいほど輝く星空。

とまった自販機。

 

8年前と同じ天気・日にち。

でも、全く違う。そんな3/11を過ごしました。

 

・あとがき

本当は、3/11中にあげたかったんですが無理でした。

ブログを書いている途中で涙が出てきました。

地震がおさまった後、私は死ぬんじゃないかと思うくらいの動悸に襲われることが何回もありました。

その時はわからなかったのですが、今になって思えばあれは、震災によるPTSDの発作だったと。

本当に、死ぬんじゃないかってくらい苦しいんです。でも数分でよくなるんです。

半年くらい続きました。今は平気です。

でも、今も平気じゃないものもあります。

 

例えば、地震が起こったとき。

例えば、地震速報がなったとき。

 

この2つはいまだなれません。特に地震速報が流れた時は固まってしまいます。

震災から1か月は鳴りっぱなしみたいな状態でした。

 

支離滅裂ですいません。

ただ、8年たってなお涙なしで書けなかったんです。

推敲校正はしています。誤字脱字あった場合は連絡ください。